どうやら、いつになってもトロイメライは名曲だ。
冒頭から夢見るような音楽で、最初の1小節を聞いただけで誰もが「あ、トロイメライだ!」とわかる。
トロイメライが何故これほど聴く人を惹きつけるのか、きっと理由がある。
のだろうけれど…
先ず、この曲が何拍子なのか、冒頭を聴いただけで答えられる人はいるだろうか。
何も考えずに聴いていると、最初は5拍子?で3拍子?次が2拍子で…!?!?と物凄い変拍子に聞こえやしないか。
楽譜を覗いてみてようやく、なんだただの4拍子か!とわかるんじゃないかな。
そして、その最初の1小節には、たったひとつの「ミ」を除いてヘ長調の三和音(ファ・ラ・ド)しかない。
「ド」からオクターブ上の「ファ」まで、「ドファラドファ」と上がっていくだけ。
シンプル・イズ・ベストとはいえ、これでは無機質なアルペジオの練習となんら変わらない。
そこに「ミ」がないのであれば。
そう考えると、このたったひとつの「ミ」の存在価値といったらない…この1音によって音楽には表情が生まれる。
ただ、この「ミ」は決して自らを主張しない。あくまでも控えめに、さり気なく存在している。そこには自らの存在に対する躊躇いや後ろめたささえ感じられる。
ミが問う
「わたし、ここに居ていいの?」
するとファ以降がこう答える
「もちろん。ほら、君がいるからこうして上に向かっていけるんだ」
こんな感じ?(笑)
シンプルだといえば、この曲の主題の全貌。
前述の通り最初に上昇する。
その後は緩やかに下降する。
ジグザグしているから一見わかりにくいけれど、主要な音だけを抜き出せばこの通り綺麗なラインを描いている。
アルペジオで舞い上がり音階で降りてくる。これはショパンのト短調のバラードの冒頭、あの仕掛けと同じ。
上昇と下降、トロイメライはこのシンプルな音形が6回(繰り返しを入れたら8回)奏でられるだけの音楽だ。
頂点の音は毎回二度打ちされる。各回の違いを比べてみるのも面白い。
当然後ろの二分音符の方がニュアンスも音量も強調されるのだけれど、3度目は様子が違う。
ここで何かしら感情の高まりをセーブするものがあるとすれば、アルトとテナーにある半音の動きではないか。
半音…
7小節からの右手のソプラノと寄り添うようなアルト。ここでも絶妙な半音、上から下にもたれかかるように半音が使われている。
半音は魅力的だ。
短2度、音と音との距離がいちばん短い。
全音や他の跳躍した音程のおおらかさに比べるとはるかに、感情のひだのより細かいところに染み入るようなニュアンスがある。
10小節からは更に高度に予期せぬところから、色々な方向に半音が現れる。またこの不規則性が聴くものを飽きさせない。
バロックの昔からラメントバスと言って、下降する半音階が悲しみの底へ音楽を引っ張っていった。
モーツァルトのラクリモーサではふたつづつの半音が涙を誘う。
半音は嘆き節。
思い返せばトロイメライの冒頭、たったひとつの「ミ」と前後の「ファ」も半音だ。
素材がごくシンプルであること。そして、ただシンプルなだけで終わらない料理の上手さ、その為の調味料「半音」。
トロイメライが今もって高級なピアノ曲であり続ける理由はここにあると僕は思っている。
あと他にあるとすれば、トロイメライという名前の響きだろうな。
トロイメライ…じつに美味しそうな名前だ。