黒鍵のエチュードあれこれ


異色の技術で人気を博す「黒鍵のエチュード」こと作品10-5、作曲者はショパンくん。


何が異色なのかといえばその名の通り、右手はピアノの黒鍵だけを弾く。きらびやかに、すばしこく動き回る細かい音型でありながら、1音たりとも例外はなく全てが黒鍵という徹底ぶり。

黒鍵だけを並べて何か作ろうなんて、大抵は飲茶が出てきそうな雰囲気になるのがオチだけど


そこは天才ショパン、右手で弾く黒鍵の音たちをジグザグに配置して散りばめた。左手は白鍵も交えて多彩なハーモニーを作り出し全体を変ト長調でまとめている。


このジグザグの動きは一見とても難しそうだけれど、じつは規則性を持っていて、その音の並びが人間の手に馴染みやすく、つまり弾きやすくできている。もう流石という他ない。(でも難しいけどね)


- ある音をめぐる議論 -

さて、そのジグザグの中に出てくる「ある音」をめぐって議論になることがあるのです。


どんな内容かというと、近年ナショナルエディションとして普及してきた通称「エキエル版」にあるここのミ♭(下記譜例)これにひどく違和感を覚える、これで弾かなきゃダメなの?というもなんだけど…


それもそのはず、エキエル版が普及する以前、旧ナショナルエディションとして広く使われていた、いや、いまも使われている通称「パデレフスキ版」では、ここはレなの。他にもレ♭の版は多々ある。次の譜例はミクリ版。

何そんなたった1音の違いで、と思われるかもしれないけれど、実際演奏するとなると気になって仕方がない。


で弾かれる時代がそれなりにに長く、その間にも数多くの名演奏が誕生してきたものだからすっかりレが耳に馴染んでしまったということだろう。


そんなところに新しい楽譜としてミが出てくると、え?何?今間違えた?とか、なるわけ。


で弾き馴染んできた人にとっては、今更ミに直すなんて、それは大変、無理無理、とかなるわけ。


ちなみにショパンの自筆譜はレです。ただ、後にショパン自身がレッスンの際に弟子の楽譜をミに訂正したという記録があります。ここミ♭の方がいいよ!ってね。色々ややこしいです。


確かにミで弾いた方が色彩豊かで、左手のアルト声部の動きと呼応して面白い効果もあるから、僕も自分で弾くならミ♭だな


- 興味深い音源をいくつか -

さて、興味深い音源をいくつか聴いてみましょう。レ♭を定着させたパデレフスキ版の名前のその人、大ピアニストでありポーランド首相をつとめたイグナツ・ヤン・パデレフスキの貴重な録音が残っています。

おいおいちょっと待てくれ!


パデレフスキ自身はなんとミで弾いているのだ。


あんたの楽譜と違うじゃないか!


と言いたくもなるけれど、実際のところパデレフスキ版が出来上がったのはパデレフスキの死後のこと、超多忙だったパデレフスキ本人が楽譜の編纂にどれほど首を突っ込んていたのかも疑問である。


この録音当時(1917年)に存在していたであろう楽譜をあたってみると、いくつかミで書かれている版が確認できた。パデレフスキがどの楽譜を使ったのか、それはわからないけれど、レが一般的になる以前はミで弾かれることも珍しくはなかったのであろうことはわかった。


ちなみにパデレフスキと同時代、同じくポーランドでもうひとりのイグナツこと、大ピアニストのイグナツ・フリードマン、彼も自分の編集した楽譜を出版していて、こちらフリードマン版では例のこの部分はミになっている。



そしてフリードマンも録音が残っているので聴いてみよう。

うん、レで弾いている。

あんたらテキトーだな。


そんなことより凄い演奏だ。何という切れ味!何と自由自在なテンポの動き!楽譜に無い音が沢山聞こえる。グリッサンドまであるぞ。もはや楽譜とは。


- 今後の展望 -

ちょっと整理しておきましょう、

パデレフスキが現役だった20世紀初頭、ミとレは混在していた。その後パデレフスキ版の普及によりレが一般的になった。近年エキエル版の普及によりミで弾かなきゃとなった。

いったい我々は何に振り回されているのだろう。


とするとなんだ?

次の時代はどうなる?

またレか⁈


もういっそのこと、ミでもレでもない、新しい何かを探そうではないか!


とか