ショパン:バラード第1番  冒頭の不思議

7小節目の和音に注があります。

 

それを見ると、この和音の左手にある「ミ♭」はドイツ初版では「レ」に訂正されたとあります。

 

レになった場合、ここの和音はただのト短調の3和音となります。しかし、ミ♭となるとこれは何とも説明のつかない、それも結構な不協和音になります。和声学上正しいのは前者ですが、現代の私たちの耳に魅力的なのは後者のミ♭です。このミ♭は詩的でミステリアスな雰囲気に一躍かっています。

 

「レ」なのか「ミ♭」なのか、この問題はバラード第1番の鍵となる音列と関わりがあるように思いますので、若干重箱の隅をつつく感がありますが、今日はこれを。

 

この曲の楽譜を眺めていると、第1テーマとも呼べるこの6つの音からなる音形、特に後半の下降する3つの音(ここではシ♭・ラ・ソ)がこの作品全体に縛りをかけていることが見えてきます。

 

バラード1番の中で下降する3つの音を探してみると、あらゆる所で、それも割りと大事なところで、見つかります。

 

このことに関連して、吉田秀和さんが「作曲家論集3ショパン」(音楽之友社)で7小節目の和音を分析してらっしゃいます。吉田氏は流石の考察力で、ここに「ミ♭・レ・ド」というラインを発見しておられるのです。なんとも!

 

吉田氏は各版の相違ついては触れていませんし、 「このようなことは、計算ではなくて、ショパンの音楽的直感、音楽的本能が示したのだろう」と書いておられます。

 

が、僕はショパンには和声のルールを破ってまで「ミ♭」を書くべき確信があったに違いないと思っています。以下は僕の考えです。

 

吉田氏の指摘する「ミ♭・レ・ド」のラインと直後の「シ♭・ラ・ソ」は完全な下降音階としてつなぐことができます。

さらにはこの曲の有名な冒頭からのユニゾンは3小節目のドを頂点に下降音階を綺麗にになぞって降りてきて、

シ♭・ラ・ソに到着するよう書かれています。

この長い下降音形(青いライン)の着地点であり、またこの曲を統率するテーマともなるのが「シ♭・ラ・ソ」です。

 

その頭の「シ♭」、これは前小節から異様に引き伸ばされ強調されています。

 

その「シ♭」が初めて登場する箇所こそがあの第7小節です。

 

この「シ♭」に確固たる意味を持たせるためにもショパンはここで左手に今一度新たな下降音形を半ば強引にぶっ込んだとみるのは考えすぎでしょうか。

 

青いラインと赤いラインは最後の3音をもって一致します。

 

ちなみに、下降する音がこの作品の重要なテーマであったことは、曲のいちばん最後で明かされます。

 

曲の冒頭では柔らかなヴェールをまとい揺らめきながら降りてきたユニゾンですが、曲の結尾では両手オクターブのユニゾンによって強烈な響きとなり、身ぐるみ剥がされ下降半音階という(あらゆる意味で純粋な)骨組みだけの骸骨のような姿になって曲を閉じているのです。

 

これほど残酷な終わり方をする音楽が他にあるでしょうか。

 

この曲の最初のページの演奏は大変難しいものです。

 

演奏の手掛かりとして、この2つのラインに注意深く耳を傾け、音楽を引っ張っていけばきっと緊張感のあるものとなるのではないか、というお話でした。